2010年12月8日水曜日

旧大日本帝国のスローガン五族協和の中に漢民族も含まれていてた証拠が、この満州の国旗です。

満州国の国旗は「五族協和」をイメージしています。

黄色は満州民族と統一、赤は大和民族と情熱、青は漢民族と青春、白はモンゴル民族と純真、黒は朝鮮民族と決心を表しています。

旧大日本帝国のスローガン五族協和の中に漢民族も含まれていてた証拠が、この満州の国旗です。旧大日本帝国は白人をアジアから追い出すために戦っていた。

その聖戦ともいうべき偉業に協力するどころか敵対したのが漢民族である。

当時は日本は欧米の植民地支配を受けていた東南アジア諸国の独立だけではなく、チベット、ウイグル、蒙古の独立も支持していました。残念ながら、これらの国々は日本側、つまり敗戦国の一員としてみられたので独立が適わず、中華人民共和国の自治区として取り込まれてしまいました。戦況が長引いておれば、終戦後、東南アジア諸国のように自主独立できたかもしれません。チベットが独立できず中国内で弾圧されるようになったことは日本も無関係ではないということです。

日本とチベット:戦時中に中立の立場で日本を支援し、連合国側に協力しなかったため、戦後”準敗戦国”の扱いを受け、戦勝国の中国に武力によって併合された。もちろん、表があれば、裏もありました。残念ながら、日本は明治維新で長州の朝鮮人被差別部落民に下克上されたので、腐ったのが上層部に大勢いたのです。ただし敗戦後も異国で異国の独立戦争で元旧日本兵が活躍した事実が残っています。下層部は誇りある日本人だったのです。

温故一九四二
日中戦争の際、1941年(昭和16)から43年(昭和18)まで続いた旱魃により被災者3千万人、餓死者3百万人という、途方も無い「大陸規模」の犠牲者を出した大飢饉が中国大陸を襲っていた。この災害は天災だけでなく人災の一面があって、蒋介石の中国国民党軍は、「民衆が死んでも土地は中国人のもの。兵士が死ねば日本人がこの国をわがものとする」といって、軍糧を過剰なまでに取り立てたという。日本軍は、餓死寸前の農民に軍糧を放出し、飢餓農民を救った。
 河南省の災害史を調べる中で、この歴史の真実を発見した作家の劉震雲氏はこの歴史事実を素材として「温故一九四二」という小説を出版し、それが中国でロングセラーとなり、現在映画化が決定されたというのだ。


1937年7月7日夜半、北京の南を流れる盧溝河に架かる盧溝橋で毛沢東が率いる八路軍に発砲されました。証拠は無いが、日本軍はそれでも停戦交渉をした=中国と戦う意志が無かった。

焦土作戦
支那軍は敗走時、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う焦土戦術を行った。
上海~南京、また、南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
南京戦の前後も、支那軍や盗賊による強奪に伴い殺害も発生した。

ラーベ
11月16日、蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。日本人の進攻を防ぐため。


孫元良
やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった。

ミニー・ヴォートリン
12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。

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